白日会とは

会長挨拶

 白日会は大正13年、中沢弘光、川島理一郎が同志を募って創立しました。それぞれの時代を支えてきた先輩諸氏の努力によって、当初の自由な精神が受け継がれ、創作発表の場となってきました。私の初出品は31回展でしたが、当時はまだ日展傘下の弱小団体と言われ、かろうじて命脈を保つだけの低迷期のさ中でした。
 やがて、伊藤清永先生、小堀進先生等の作家活動に導かれるように、若い作家達が参加し始め、白日会独特の、日展参加、不参加組のハイブリッドの作家達が、相互に刺激し合う、今日への端緒になりました。
 かつてのネオアカデミズムから脱皮し、鮮明に「写実」を標榜し、見えるものを通して、見えないものを描こうとする理念に結びました。公募、研究団体としての存在感も格段に高まり、「写実の王道を歩む白日会」との世評を、更に明日への活力の源として参りますので、この上とも、御叱声、御支援をお願い申し上げます。

白日会会長 中山忠彦

白日会について

 大正十二年(1923)1月、欧遊の帰途にあった中沢弘光は同船に乗り合わせた川島理一郎と出会いました。互いに話を深めるうち、大正デモクラシー当時の、自由と統制、西洋的と日本的、新しいものと旧いもの、それらの抗争と分裂から生じた混迷状態にあえぐ日本洋画壇の将来に心をいため、ここに正当な美術研究団体を結成し、友人同志を誘って相互研鑽の場とする新団体の結成を誓い合いました。
 同年9月1日に関東大震災が襲い首都東京は壊滅的状態となりましたが、先の志をもって、さらに大震災直後の人心喪失動揺の極みにあった最中に美術の復興と普及を目指し、当会は翌年大正十三年(1924)1月に正式に発足され、3月には震災の痛手を負った室町三越にて白日会第1回展を開催、同展は人々に大きな希望を与え大好評を博しました。
 中沢弘光は先のインド洋上で仰いだ白日に輝く太陽にちなみ、この新団体を「白日会」と命名しました。
 黒田清輝門下の中沢弘光は、帝展の重鎮で先に白馬会と光風会の創立に参加し、またパリで活躍中の新進気鋭の作家であった川島理一郎は、後に梅原龍三郎と共に国画創作協会洋画部を新設しました。この二人の呼びかけから、南薫造、辻永、富田温一郎、吉田三郎、池部鈞、近藤浩一路、岡本一平、三上知治、小寺健吉、笠原靱、相馬其一、栗原忠二、柚木久太、北島浅一、鈴木秀雄、鈴木良治の、帝展に出品する東京美術学校出身者と西欧留学者を中心に、二科展、院展、太平洋画会、無所属等の系列の、超党派的に結集した作家18名が創立会員となり、第1回展が開催されました。
 この第1回展の成功を呼び水に、第2回展からは若手や地方作家の中央進出への足掛かりと自由な発表の場として、当会を公募展として開放し上野竹の台陳列館に会場を移し、さらに第3回展からは新設された東京府美術館に会場を移しました。
 初期の白日会展には、猪熊弦一郎、靉光、棟方志功、井上長三郎、刑部人、橋本八百二、佐分真、高田誠、中村節也、中西利雄、小野忠重、田中忠雄、福田新生、松田尚之など、日本美術史上に名を残した当時の若手作家達が出品しました。
 しかし公募に踏み切ったことで創立会員が次々と会を離れ、さらに昭和初期から戦中にかけて時局の荒波に翻弄され、当会は数多くの変遷や紆余曲折を経験し、創立会員と諸先輩達は風雪の年譜を歩みながら苦闘してきました。
 さらに戦後の当会が日展傘下の団体となり、他会派との緩やかな連合が否定され、独立美術協会や二科展系の作家が退会を余儀なくされたことにより質的低下を招き、また戦後美術の新潮流からは白日会の作風は旧弊と評価される中、当会本来の機軸を改めて打ち立てるべく富田温一郎を中心に「ネオ・アカデミズム」路線を提唱し、25回展(昭和24年・1949)では会員でも振るわない作品の展示を拒否し会友の全廃など行い、当会の建て直しをはかりましたが弱体化は免れませんでした。
 しかし、今後当会が歩む筋道を形成したことに繋がりました。

 30回展(昭和29年・1954)には、創立会員は中沢弘光と富田温一郎と吉田三郎の3名となり、当会の解散も密かに話し合われる中、富田温一郎が突然他界し、その後吉田三郎、中沢弘光と逝去していく中、当時の気鋭の中堅作家であった前会長の伊藤清永(文化勲章・1911-2001)を中心に、小堀進、平松譲、彫刻の中村晋也(文化勲章)等と共に、弱体化し低迷する当会の復興復活に全力で取り組みました。
 前会長伊藤清永は、自身は「ネオ・アカデミズム」をさらに掘り深めつつ、平松譲、柳沢淑郎、伊藤利行、柴田祐作、そして内弟子の中山忠彦を中心に、野田弘志、深澤孝哉、阿方稔、石垣定哉、小島俊男の日展に出品しない若手作家を運営中枢で起用し、また彫刻部では中村晋也を筆頭に、市村緑郎、山本眞輔、峯田義郎と共に、当会創立の精神である「研究団体」を基軸としながら、若手作家の育成をはかり、健全、自由な具象作家の集団であると共に、プロ作家を養成しプロの集団化を促進し、絵画と彫刻というファインアートで編成する当会の独自な地歩を築き上げました。
 さらに前会長伊藤清永を引き継ぎ、平成十四年(2002)に会長に選出された中山忠彦は、先達の精神をさらに確かなものにしながら、「ネオ・アカデミズム」路線を脱皮し、「見えるものを通して、見えないものを描こうとする」こととしての「写実」の理念を掲げ、自ら先頭に立って当会を牽引し、美術界で活躍する数多くの白日会作家を輩出し、さらに当会伝統精神の次世代への継承をはかりながら現在に至ります。

 こうした当会の100年近い伝統を持つ中で、現在の白日会の作家達は、創立の精神を受けつぎながら、伝統的な技法や表現の尊重、対象への真摯な姿勢、新時代に向けた自己に根ざす誠実な取り組みにより、「見えるものを通して、見えないものを描こうとする」べく、日ごとその研鑽に励み、作家それぞれが新しい「写実」を追求し続けています。

会章・八咫烏について

 八咫烏(やたがらす)は古事記と日本書紀に登場し、天より遣わされ神武天皇の東征を導いた鳥として伝えられている。「咫」(あた)とは、人の手の親指と中指を広げた時の長さ、「八咫」とは「大きい」という意味であり、転じて「立派な」あるいは「ありがたい」という意味を持つ。八咫烏は太陽神の象徴であり、天照大御神の分身であり、導きの働きをする。しかし古事記や日本書紀には八咫烏が三本脚との記述はなく、古代中国で用いられた太陽に住む三本足の鳥の図案が本邦に伝来したものとされる。

 白日会は、「白日」すなわち太陽を象徴する八咫烏を会章としており、その図案は創立会員川島理一郎の筆による会幟(のぼり)から転写されたものと伝えられている。