代表挨拶

白日会は令和6年(2024)3月に創立百周年記念展を行い、中澤弘光と川島理一郎、富田温一郎や吉田三郎他、当会の創立や継続や現在に至るまで尽力された先達を顕彰しました。
第101回展では当会百年の結晶でもある中山忠彦会長の追悼展を行いました。中山先生は、白日会を解散寸前の危機から救い現在の隆盛の基礎を築いた伊藤清永先生の路線を受け継ぎ、若い作家の育成に尽力され、多くの優秀な作家を輩出しました。又、「見えるものを通して見えないものを描くこと」を理念に掲げ、「写実の王道」を目指されました。私達はこれら先達らの精神を継承し、より一層邁進していきたいと思っています。
その上で、白日会が創立時から掲げる「研究団体」の初心に帰り、新しい白日会を会の皆さんと共に一丸となって作っていこうと思います。
白日会はさらに深化し発展を続け、芸術の本道を歩んでいく所存ですので、今後ともご支援と応援の程、宜しくお願い申し上げます。
白日会代表 斎藤秀夫
白日会について
大正12年(1923)欧遊の帰途にあった中澤弘光は、偶然同船に乗り合わせた川島理一郎と出会う。話を深める内、混迷にあえぐ当時の日本画壇の将来に心を痛めた。中澤と共にあった小寺健吉と鈴木良治からフランス風の小研究所設立構想が提案され、意気投合し「研究団体」的な新結社の結成を誓った。帰朝後に彼らが結成を呼び掛けていた矢先の9月、関東大震災が発生し首都は灰燼に帰したが、震災4か月後の翌年の大正13年(1924)1月、18名の同人により、人心喪失動揺の極みのなか美術の復興と普及を目指す意図も込め、正式結成した。なお「白日」の名は岡本一平の命名である。同年6月に日本橋三
越で第1回展を開催。第2回展から若手や地方在住者の中央進出への足がかりとなる意も込め公募展化し、中澤弘光を首長に富田温一郎が補佐を、吉田三郎が彫刻部を率いる体制で、主に帝展に出品する作家と在野団体の出品作家が集う超党派的な会として独自のありようを築いた。なお中澤は、白日会について、「老人から若者まで自由な立場で集まって絵(彫刻)の勉強をしているのが当会の特色です」と語っている。
大戦末期に多くの美術団体が解散するなか当会は第22回展の延期を決定、終戦直後に再開した。戦後「ネオ・アカデミズム」路線を打ち出すも、新思潮の美術界状況の中で孤軍奮闘、会の支柱であった富田温一郎が第30回展後に歿し当会は解散の危機を迎えた。伊藤清永を中心に小堀進や平松譲、中村晋也らと共に、創立の精神を受け継ぎながら再興に奮起し、伊藤は初代会長となって現在に至る基盤を建設し第77回展出品を後に翌年歿した。中山忠彦が伊藤の遺志を継ぎ会長として「見えるものを通して、見えないものを描こうとする」理念に結びつつ当会を牽引し続け百周年記念展後に歿した。現在、斎藤秀夫が代表となり、伊藤と中山の路線を引き継ぎながら「絵画と彫刻の研究団体」としての初心に返りつつ会全体で新しい百年に向かい進み始めている。
会章・八咫烏について
八咫烏(やたがらす)は古事記と日本書紀に登場し、天より遣わされ神武天皇の東征を導いた烏として知られている。
「咫(あた)」とは人の手の親指と中指を広げた時の長さ、「八咫」とは「大きい」という意味であり、転じて「立派な」あるいは「ありがたい」という意味を持つ。
八咫烏は太陽神の象徴であり、天照大御神の分身であり、導きの働きをする。しかし古事記や日本書紀には八咫烏が三本脚との記述は無く、古代中国で用いられた太陽に住む三本脚の鵜の図案が本邦に伝来したものとされる。
伝承では川島理一郎の会幟の転写とされた。白日会は最初「青天白日」の図案を用いていたが、第6回展以降に村上鉄太郎と野口良一呂が「八咫烏」の図案を提案し採用され、現在に至る。

